有田焼と波佐見焼の関わり
佐賀県有田町でつくられている有田焼と、長崎県波佐見町でつくられている波佐見焼。
今でこそ佐賀県と長崎県という別々の県に分かれてしまった有田町と波佐見町ですが、実は県境を挟んだ隣町でもあります。
有田焼や波佐見焼がつくられるようになった17世紀初頭頃から江戸時代にかけての古い区分では、隣り合うふたつの町はともに肥前と呼ばれる土地に属していました。
2016年には肥前窯業圏として佐賀・長崎両県にまたがるエリアが日本文化遺産として登録されています。
有田町と波佐見町も、当然そのエリア内にある著名な窯元の町。
日本の磁器のはじまりである有田焼と、そのすぐ隣の町で生産された波佐見焼との関わりについてみていきましょう。
■有田焼とほぼ同時期につくられるようになった波佐見焼
有田焼がつくられるようになったのは、17世紀初頭の豊臣秀吉による朝鮮出兵の折に連れ帰られた李参平という陶工の存在がきっかけでした。
実はこの戦争の際、朝鮮からは他にもたくさんの陶工が日本に連れてこられています。
特に九州地方の大名は、焼き物に関する高い技術を得るためたくさんの陶工たちを連れて自分の藩へ帰りました。
李参平もその中のひとりだったというわけですね。
波佐見町にも、こうして朝鮮から連れてこられた陶工がいました。
李祐慶という陶工を中心に、波佐見町でも有田焼がつくられはじめたのとほぼ同時期に窯がつくられ、磁器の生産がスタートしたのです。
■元はどちらもまとめて「有田焼」と呼ばれていた
日本で一番長い歴史を持つ磁器である有田焼とさほど変わらない時期につくられはじめた波佐見焼ですが、その名前が表に出るようになったのはごく最近のことです。
というのも、長い間、有田焼と波佐見焼はどちらもまとめて「伊万里焼」「有田焼」と呼ばれていたからです。
有田町や波佐見町でつくられた磁器は海外へも多数輸出されていましたが、そのための船は伊万里港から出ていました。
海外から見ればどちらも日本の伊万里港から届いた磁器、というわけでまとめて「IMARI」、伊万里焼として扱われていたのです。
日本国内においても、特に明治以降鉄道で商品が流通するようになってからは、有田駅から出荷されていたためやはりまとめて「有田焼」として取り扱われるようになります。
そもそも生産地が隣り合っていて密接に関わりがあったこと、窯元や生地屋など一部の施設は共有して使っていたこともあり、明確な区別はされないまま、どちらも「有田焼」としてその品質の高さを日本のみならず海外へも広めていくこととなったのです。
近年の生産地表記を厳密化する流れの中で、有田焼と波佐見焼は別の産地でつくられた磁器としてはっきり区別して扱われるようになりました。
異なる特徴ももちろんあるものの、似ている部分も多い有田焼と波佐見焼。
双方の関わりと歴史に思いを馳せながら器を見てみると、また違った感慨が生まれそうですね。
澄弘堂|有田焼 業務用食器
有田焼で業務用の食器をお探しなら【澄弘堂】にお任せください。旅館、ホテル、レストラン、料亭、居酒屋など様々な業種、店舗の雰囲気、お料理のテイストなど、用途に合った器などを豊富に取り揃えております。また業務用としてだけではなく、ご家庭用として個人の方にもご購入頂くことができますので、是非お気軽に利用ください。
屋号 | 澄弘堂 |
---|---|
住所 |
〒843-0022 佐賀県武雄市武雄町大字武雄6930-5 |
電話番号 | 0954-33-8009 |
営業時間 | 平日9時~18時 |
代表者名 | 横石 佳須之(よこいし かずゆき) |
info@arita-seikodo.net |