有田焼が再び人々の注目を集めた世界万博
17世紀のはじめに誕生し、江戸時代にはヨーロッパへの輸出も非常に盛んだった有田焼。一度はその海外人気に陰りが見えたものの、明治時代のパリ万博をきっかけにまた広く愛されるようになりました。
有田焼が海外での知名度と人気を再び勝ち取るまでには、実は世界万博への出展が大きく寄与しています。今回は、有田焼の万博出展の歴史についてご紹介します。
■有田焼の再評価、はじまりはウィーン万博への出展
1878年(明治11年)のパリ万博をきっかけとして、ヨーロッパにおける日本ブーム、ひいては有田焼などの陶磁器ブームが再び盛り上がったことはよく知られています。ですが、パリ万博で展示された有田焼が、突然ヨーロッパの人々の目にとまったわけではありません。ピークを迎えるまでに、2度の万博への出展が足がかりとなっていたのです。
初めて日本が明治政府として万博に参加するようになったのは、1873年に開催されたウィーン万博からのことです。このときすでに、有田焼をはじめとした陶磁器や漆器などの伝統的な工芸品が、日本パビリオンの展示品として重要な地位を占めていました。
ヨーロッパの技術と比べると当時はまだ見劣りしていた機械製品ではなく、より日本的な手工芸品をメインにというコンセプトで準備された日本パビリオンは大好評を博します。そのおかげで美術工芸品の販売を行う貿易商社なども設立され、日本の手工芸品が再び海外に輸出されるようになるきっかけとなったのです。
続く1876年のフィラデルフィア万博でも、この手工芸品を中心に据えたコンセプトは継続されました。アメリカへの輸出も増えていた陶磁器に関する展示には特に注力したパビリオンとなり、有田焼の作品が数々の賞を受けました。
有田焼は、この頃すでに日本の輸出産業の中心を担うものとなっていました。欧米では日本の有田焼の人気が高まりつつあった続く1878年にはいよいよパリ万博が開かれることになります。
■アール・ヌーヴォーにもつながるジャポニスムを支えた有田焼
パリ万博での日本の展示は、これまでに参加した2回の万博よりもさらに充実しており、賞を授与された作品の数はなんと242点に及びました。中でも高く評価されたのは有田焼をはじめとした陶磁器で、その後の10年間で陶磁器の輸出額が2.7倍にまで増加するなど、一過性のブームやトレンドを超えて、価値あるものとして定着するきっかけともなっています。
当時のパリではジャポニスムが人気を博していて、有田焼のデザインなども多くの芸術家にさまざまな影響を与えていました。その後パリではアール・ヌーヴォーが最盛期を迎え、ベル・エポックと呼ばれる芸術の黄金期を築きますが、その礎のひとつとなったのもこのジャポニスム。有田焼をはじめとした、日本が誇る手工芸品とその文化の数々だったのです。
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